藤樹神社と陽明学
滋賀県高島市。ご祭神は近江聖人と言われる中江藤樹。
私の好きな神社の一つであるが、パワースポットではない。
しかし、私はこの場所にくると、シャキン!とする。先日も出張のついでに参拝してきた。
中江藤樹は江戸幕府が開かれた5年後、1608年この地、小川村で生まれ、昨年生誕400年祭が地域を挙げておこなわれた。
藤樹先生は中国明代に王陽明が開いた陽明学を日本に広げた「日本陽明学の祖」。隣接する陽明園は、日中の思想を通した交流を記念して建てられたもの。
陽明学は幕末の尊皇攘夷運動の思想的バックボーンとなり、吉田松陰、高杉晋作、 佐久間象山などが代表的信奉者であった。西郷隆盛も、禅の思想と関連のある陽明学を信奉していたようだ。
近代では、土佐の浪人から三菱財閥を興した政商岩崎弥太郎、日本資本主義の父と言われる渋沢栄一、軍神と言われた広瀬武夫、それに東郷平八郎、作家で自衛隊市ヶ谷駐屯地で自刃した三島由紀夫、そして戦前戦後の政治フィクサーで当時のリーダーに多大な思想的影響を与えた安岡正篤も陽明学の信奉者であったとされている。
当時江戸幕府の公的学問は朱子学であった。
朱子学は大儀名分を重んじ、藩に対する忠孝を旨とする学問で、幕藩体制を維持するには都合のよい、理に適った学問として武士の教養の手本であった。
一方、陽明学は危険な学問とされ、下々の者が学ぶべきではないとされていた。
それは「心即理」「至良知」「知行合一」などの言葉に代表されるように、「己の良心」が大義名分、体制維持より先に立つという思想をもっており、思想と行動の合一を掲げたため、革命思想につながる恐れのある学問とされていたからである。
1837年、天保の飢饉の翌年、江戸幕府を倒そうと立ち上がった大塩平八郎が農民や町民を巻き込んで起こした大塩平八郎の乱。この無謀で悲惨なクーデターは陽明学の思想がベースとなっている。島原の乱以来の幕府にとっての大事件であった。この乱を境に、さらに危険な学問とのレッテルを貼られたという。
中江藤樹は農民の生まれであるが、9歳の時に米子藩の武士であった祖父の養子になり家督を継いだが、国替えになった愛媛県伊予大州藩を脱藩した。27歳の時であった。脱藩の理由は国(近江小川村)に残した母に孝行したいという理由であった。これも素直な良心に従ったものだろう。
江戸初期の脱藩は武士にとって死と同じことであった。(江戸後期の坂本竜馬も脱藩者であったが、幕末の脱藩と江戸初期の脱藩とはことの重大さが違う。)
脱藩した後、しばらく隠遁し国に戻った藤樹は酒の商いをする傍ら、「藤樹書院」を開き、武士、商人身分関係なく地域の人々に学問を教えていた。このことから、藤樹神社は学問の神様としても有名であり、その伝え来る人柄で現在でも「近江聖人」として慕われている理由の一つである。同神社の社宝として有名なのが、昭和天皇の皇后が学生時代に書かれた作文「我が敬慕する人物中江藤樹」。
当時直接薫陶を受けたのが熊沢蕃山。
あまねく、聖人と言われる人は「書物」を残さない。孔子、孟子、キリストもそうだ。直接人から人へ語りかけ、言葉以外の感性を受け取める教え方、いわゆる「面授」により弟子に直接教えを施し、その弟子が記録した師の言動によって脈々と語り継がれ、偉人を偉人たらしめるものだ。
さて、現代。
パラダイムシフト、価値体系が変わりつつある今、しっかりとした視点と感性をもって変革に備えなければならない。その一つの視点を与えてくれ、感性を高めてくれるのが、中江藤樹の教えではないだろうか。
事業活動によって、地域や社会を良くする、ソーシャルアントレプレナーシップ、ベンチャースピリッツを涵養するためにも学んでおきたいところ。
今だからこそ、藤樹先生に想いを馳せたい。
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